東京とその周辺が壊滅的な被害を受けた関東大震災から100年。研究の第一人者として真っ先に名前が挙がるのが、名古屋大減災連携研究センター特任教授の武村雅之さん(71)だ。30年以上、研究を続けてきた武村さんは「東京はこのままでいいのか」と訴える。
「関東大震災で東京にこれだけの被害が出た一番の要因は、明治政府の街づくりの失敗でした。その後、反省に立ってすばらしい街をつくってくれた。それなのに今、首都直下地震におびえなければならないのは、100年前の人たちの思いを、私たちが引き継げていないからです」
こう訴えるのは、先人たちが残した各地の資料などを手がかりに、震災の様相を一つひとつ解き明かしてきたからだ。震源の位置や揺れ方、2日間でマグニチュード(M)7を超える余震が5回起きていたことなどを明らかにした。
かつて犠牲者の数は「14万2千人余」とされていたが、この数字は行方不明者と身元の分からない死者が重複していると指摘。実際は「10万5千人余」だったと発表した。
「綿密な調査をしましたねと言われますが、知りたいことは全部調べないと気が済まない性格。気付けば30年も研究していたという感じです」
子どものころから台風に関心があり、中学生の時は毎日、天気図をつくっていた。気象学を学ぼうと東北大に進学したが、流体力学で挫折して地震学を専攻することに。物事の本質に迫るおもしろさに目覚め、大学院に進んで博士号を取得した。
1981年、原発の設計などのため地震の専門家を必要としていた大手ゼネコン・鹿島に誘われ、研究職として入社した。28歳だった。
当時は、首都圏の埋め立て地などに高層ビルを建てる「ウォーターフロント開発」の勃興期。過去の地震などから震源を想定して建物の揺れを予測する研究をしていた。
千葉市の幕張新都心にツインタワーを建設する際は、関東大震災の震源を仮定して地震波を計算し、設計に取り入れた。
だが、関東大震災がM7・9とされた根拠がはっきりしなかった。「本当に正しいのか、調べたくなったんです。予測をしても、合っているか間違っているのか分からないので、正直、面白くはなかった。それよりも、関東大震災についてもっと知らないといけないと考えるようになりました」
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル